30代子持ちのキャリアチェンジ記

1991年三重生まれ、金融系SEから転職したい。渋谷区で0&3歳児子育て中。食べることと旅行が生き甲斐

【ななみよみメモ】無意識の整え方 前野隆司

「無意識」は「意識」よりも先に私たちの行動を決めているという「受動意識仮説」を唱えている慶応義塾大学教授の前野隆司さんと、「無意識」と関わっているエキスパートとの対談集。

 

無意識に関する有名な実験として、1983年、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の医学部神経生理学リベット教授の実験を紹介する。

リベット教授が行ったのは、人が指を動かそうとする時、脳にある動かそうと意図する働き(意識)と筋肉を動かせと脳が指令する随意運動野(無意識)の働き、そして実際に指が動くタイミングを計測する実験だった。その結果、筋肉を動かすための運動神経の指令(無意識)は、心が動かそうと意図する脳の活動(意識)よりも0.35秒も先だということが分かった。私の考えた「受動意識仮説」を用いてこの実験結果を説明すると、私たちの今度行動を本当に決めているのは脳の無意識であり、意識はその決定を約0.35秒後に受け取って自分が決めたと記憶しているだけではないかということだ。


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以下、対談集から、心に刺さった部分をメモ。

 

平信一 心身統一合氣道会 会長

 

心の倉庫にマイナスなものを溜め込んでおきながら、プラス のものを出そうとするのは無理がある。毎晩その日にできたこと良かったことを例えば五つ以上、記録したり思い出す習慣をつけてもらうこともお勧めする。(ポジティブ心理学では家にあった良い出来事を三つ書き出すという方法が非常に効果的だとされている。by著者)

 

・ 本来心と体はひとつのもの。ところが我々は日常生活で身体と心をバラバラに使っていることが多い。 それは自分の心を十分に目標に向けず身体だけを使っている心身分離の状態である。一方で、自分が好きなことをやっている時は心と体が同じ方向を向いているから能率も上がる。これを心身一如の状態という。 言葉にも心身一如と心身分離がある。私たちはその発語より先にその人発している氣を感じている。 人は、あとから聞いた発言が一致しているかを確認する作業を我々は無意識のうちにいつもやっている。 例えば「いってらっしゃい」という言葉も、本来は「気をつけて行って戻っていらっしゃい」という気持ちがこもっているものだが、氣を通わせずにただ「行きなさい」という言葉として発してしまうとマイナスの言葉になってしまう。

 

不幸せな時には間違いなく氣が滞っている。(人間には本来ものすごい能力が備わっているのに、それを意識の働きで小さく狭まっているのではないかという気がしている。by著者)

 

合気道に限らずスポーツのトップ選手はプレッシャーがかかってつい頭で考えてしまうとパフォーマンスが落ちるという。無意識に入った後は意識はむしろ邪魔になることが多いのだろう。

 

・ 意識は物理的にある・ないというのはどちらでも良くて、そうした存在が仮にあると定義することで心身ともに良い状態を作り生きやすくなるもの。

 

光明寺僧侶 松本紹圭

 

上座部仏教では、阿羅漢の究極としてそこに至るまでのいくつかのステップが設定されている。 エントリーレベルの「預流果(よるか)」と呼ばれる状態においては、私という存在が幻想にすぎないということが看破される。 人間は、「私はどこから来て死んだらどこへ行くのだろう」という素朴な問いを抱えているが、この問いには私という存在の核(コア)が変わらないものとして想定されている。 しかしそうではなく、私は「空」としてある。そのものに実態があるわけではないけれど、あらゆるもののつながりの中にある。私が私というコアを持って独立したものとしてあるという考えは、幻想なのだということになる。

 

大乗仏教では全てはご縁で成り立っているという「縁起」の考え方がある。 大乗仏教の理論の成立には龍樹という人が大きな貢献をしているが、彼の理論を徹底していくと、全ては仮の成り立ちとして見ることができる。私の存在が仮ならば、私の煩悩も成り立たないという訳だ。龍樹はこれを「無自性」と表現した。 それそのものとして独立して成り立つもの何もなく、すべては縁によって起こっては流れ、起こってはは流れるということだ。だから実体的なものはどこにもない。 例えば、怒りの感情が湧いてきても、それは全て縁で起こっているのだと気づければ、いちいちとらわれずに済む。「なんだか怒りが湧いてきたようだね」と客観的になることさえできる。それは「手放す技術」とも呼べるかもしれない。

 

浄土真宗の伝統では念仏は「弥陀の呼び声を聞く」と表現される。英語では コーリング(CALLING) 、つまり呼びかけられているということだ。生前のスティーブ・ジョブスは毎朝、「今日が人生最後だとしたら何をやりたいか」と自問自答していたという話があるが、これは念仏の CALLING の儀式と同じようなものだと言える。 善の世界では、「前後際断」という言葉がある。前のことと後ろのことを連続して捉えるのではなくて、一瞬一瞬を新鮮な気持ちで大切に生きていくという意味である。 ジョブズのように毎朝自問自答しする習慣は、時間の流れを区切り、一瞬一瞬を生きることにつながるかもしれない。

 

・普段無意識に行なっている呼吸に意識を向けたり、素足で歩いて足の裏の感覚を意識したりして、身体感覚というセンサーを使って、今ここに我々の意識を持っていくやり方もある。

 

物の扱いが粗雑だと、心も粗雑になる。 修行僧は1日のうち1/3は掃除をしていると言われている。 修行僧の限られた持ち物は全て置き場所が決まっている。「あるべきものが、あるべきところに、あるべきようにしてある」。物を丁寧に使い込み、心の耳を澄ませ、物が置いてある部屋という空間が自分の体の一部であるかのように感じられるまで毎日掃除を繰り返す、まさに無意識の鍛錬である。私達は普段ものを使う時に出して使い終わったら元の場所に戻すという簡単なことがなかなか出来ない。それは物の扱いが粗雑になっていると同時に、心も粗雑になっているからです。 

 

株式会社 森へ  山田博

・都市で生活しながら無意識を開くコツは「ゆっくり行う」こと。普段やっていることのスピードを半分にしてみる。 歩く、話す、呼吸、食事、何でも構わない。いろんなことをやろうとするより一つの事をずっと続けて見る。例えば歩くスピードを半分にすると、無意識の感覚が開き、直感も鋭くなる。 歯磨きであれば、本当にゆっくりゆっくりやればで毛先が歯茎に当たる感じが分かり、「今奥から3番目の奥の裏に当たっているな」などと気づく。

 

医師 稲葉俊郎

・人の体はそもそも愛と調和の場である。 でも、時々体も心もバランスが崩れて不調や不均衡になることがある。西洋医学ではそういう不均衡な状態を病気として名前を決めてしまうが、そうではなくて、体や心を全体論的に見て「調和して完全だった均衡が崩れたのだから調和の状態に戻って行くにはどうすれば良いだろうか」という発想すればいいわけだ。そうすると自分が一番調和している状態とはなにかをまず考えて、そこを探っていくという発想になる。病名とか病気とかわざわざ分類していく必要そもそもない。

 

・「みずから」と「おのずから」は、どちらも同じ書き方をする。「自ら」というのは個人の意志や思考によるものだが、「自ら」とは運命的な働きである。 「みずから」と「おのずから」は同じ言葉なのにその両方の意味合いを持つ「あわいの言葉」である。例えば、「私達結婚することになりました」という言い方は、自分たちが結婚すると決めたのに、なぜか「なりました」と表現する。これは運命や縁を感じるから「おのずから」結婚することになりましたという日本語表現だ。また、「お茶が入りました」も同じである。自らをあんまり主張するのは恥ずかしい、ダサい、美しくないという日本人の美意識による表現だ。 それは能動と受動のどちらも否定せず両方ある状態と言える。「受動意志仮説」は、まさに「お茶が入りました」の世界だ。無意識がおのずからあるところに自由意思で自らお茶を入れたという意識が上書きされている。本当は「みずから」なんて確定的なものはなくて、私たちを動かしているのはもっと「おのずから」の世界なんだということだ。 例えば、インド人は輪廻転生をベースとしたカルマてき9ガロンに結びつけて解釈するのかもしれないまるカルマというのは逃れられない「おのずから」の力だ。 でも自由意志を持ってそこから悟りを得て解脱するという「みずから」の信仰もある。だから彼らなりの「あわい」の感覚があるのではないか。 

 

・教育に関して、学校の歴史教育がいきなり人類の歴史から始まる事に違和感を持っている。しかも、人類史で教えられるポイントのほとんどが戦争だ。そうではなくて、宇宙の生まれた時の話や、そこから長い年月を経てやっと生命ができ、さらに試行錯誤があって細胞が生まれようやく海から陸に上がり人間が生まれた、という前提の上で人間の話をしましょう、とした方がいいと思う。

 

芸術とは、子供に還ることだと思っている。 大人は世界を言葉や世界観で分類し解釈するが、子供は一番最初の根源的で大きなものを扱っている。 まさに未分化な宇宙と自然すべてがつながった世界に生きているということだ。